vendredi, janvier 23, 2009

宇野千代さん、ごめんなさい! [Miyuki Shoji]

 ええ、今までわたし、宇野千代なんて……と思っていたのです。
 エッセイはけっこう面白いから、明るくて、前向きで、素敵な女に間違いないのはわかっていました。でも、「小説家」といわれるのは、当時は女流作家が珍しかったせいと、若いころのハッとするような美貌と頭のよさと姉御肌な性格をもって、綺羅星のごとき著名芸術家たちと浮き名を流したことで衆目を集めていたのが大きいのではないか、と漠然と格付けしていました。
 宇野千代とは出身地が同じなので、保守的な地元の人々のもつ、批判的な見方の影響もあったはずです。
 しかし先日、齋藤孝さんが「宇野千代は、岩国が生んだ、世界に誇るF1マシンである」とほめ倒しているのを読み、「へぇ〜『世界に誇る』とまで言う!?」とちょっとびっくり。だいたいがわたし、「もらい泣き」ならぬ「もらい感動」度が高いので、一目置く人が何かを絶賛していると、弱いんですよねぇ。
 てなところに図書館で代表作、『おはん』をみかけて、「一冊くらいマジメに読んでみるか」と思って本を開いたら、もういけません。薄っぺらい本を一気に読み終えたときには、茫然としておりました。「すごい……」と素直に思えました。
 宇野さん、今までばかにしていてごめんなさい。


 主人公の男は、芸妓のおかよとねんごろになり、それまでつつがなく暮らしていた女房のおはんと別れる。おはんは、お腹に子どもがいたのに黙って身を引くような、大人しい女だった。
 おかよに食わせてもらいながら小商いの気楽な生活を送っていた男は、7年ぶりにばったりおはんに出会い、心が騒ぐ。相手に悪く思われたくないような妙な気持ちになり、子どもの様子を尋ねたりして気をひくうちに再び関係ができ、おかよに隠して逢い引きを重ねる男。おかよとの生活を楽しみながら、おはんにも気をもたせる。男にしてみれば、どちらも嘘ではなかった。
 顔も見たことのなかった自分の子の悟がたまたま店先に顔を出したのをきっかけに、男は、父親とは明かせないながらも、悟に何かと声をかけるようになる。悟のほうも、「おっさん、きたえ、」と男になつく。男はおかよの家を出て、おはんと悟、3人で暮らそうと決め、いよいよ引越しの日が来たが、その日の朝になってもおかよには話も切り出せていない……。

 いわゆるキャラが立っているというのか、登場人物と筋立ての流れがリアルで、嘘くさくない。そのため、読みながら気持ちを投影しやすくて、一人一人に、ついつい寄り添えてしまう。男の、自分可愛さからくるずるさや、「人としてどうよ!?」とあきれるほどの極端な意思の弱さ。おかよの、無神経さをともなうたくましさや、男好きのするシナ作り。その奥にある、人恋しさや打算。おはんの地味な女っぽさや、すれていなさ加減。あとに残る、まるで観音様のような強さと慈愛。ほんの幼い悟までも、素直さやいじらしさを、立ち居振る舞いから垣間見せてくれます。
 読み終わる頃には、「ああ〜泣かされるぅ……」と思いながら、結局、思いきり泣いてしまいました。くそぅ。

 あとがきで作者は、「生れて初めて、最初から『かういふ小説』を書かうと思ひ、組立てを考へました。」と言っていますが、「行き当りばったりの書き方」(本人による)で小説家になった宇野千代としては、ほんとうの会心作だったのでしょう(なにしろ完成までに10年もかかっているというのだ!)。
 それが見事に結集してこれほどの作品ができ上がったのだから、お千代さんの才能は確かなものであったし、男性遍歴も無駄ではなかった、能天気なだけじゃなく、マジメに恋愛してきたのだ、つまり自分の苦悩や自己嫌悪や哀切や痛恨の思いと向き合い、きちんと人間観察をしてきたのだと、得心がいったのでありました。

 おまけの「おはんバス」。岩国市を走ってまーす。


庄司みゆき