jeudi, mai 25, 2006

みゆき様カミングアウトに便乗して一席[Minoru Ota]

 みゆきお姉様が神職のカミングアウトをされたことに感銘を受けまして、我が神道がらみの小話を一席。
 我が祖父はすでに数十年も前に世を去りましたが、東京で渡世人として、また極右の思想の持ち主として、不穏かつ脳天気な生活を送ったようであり、これは父から聞いた話で眉唾ではありますが、極右の友は極左ということで、大杉栄を始めとしたアナーキストらを多くかくまったこともあるという。
 僕は「おじいさんっこは二文安い」のとおりのおじいさんっこで、おじいさんが親戚友人集めてインチキ賭博をしているときも、そのかたわらを片時も離れなかったほどで、とにかく行動を常にともにしていたのである。と、書くと偉そうだが、祖父は僕が8歳の時に亡くなったが、それまで、まさに一心同体のごときおじいさんっこだったわけだ。
 祖父がどれほど神道のことを理解していたかは知らぬが、僕は物心ついたときからすでに祖父といっしょに日の出とともに起き、朝陽に向かって一礼し、柏手を打っていたのだ。それは毎朝のことで、雨の日は見えぬ朝陽の方向に向かって行うのである。祖父はそれから神棚に水と供え物を上げ、また柏手を打つ。だから、イスラム教徒の人々が決まった時間にメッカの方角に向かって頭を垂れる礼拝にはなんか親近感を感じるんだよね。
 小学校2年、祖父が亡くなったその日から、この毎朝の習慣は失せてしまったけれど、早起きの習慣と、朝というものに感じる、精神・肉体両面にわたる清浄さの感覚というのはずっと残った。
 高校は下宿であり、盛岡一高というバンカラ高校であったから、ずいぶんとズル休みをしたが、寝坊だけはしなかった。いや、何度かは寝坊はしたのだ。だが、寝坊をするそのたびに、その日1日が不浄なものに思えたのだ。それはたまらなく不快で、自己嫌悪の気分に満ちて、自分がどうしようもなくだらしのない人間になってしまったような気分になるのだ。だから、そうならぬように、ズル休みはしても、早寝早起きを心がけるよい子だったのである。
 察しの通り、祖父とともに日の出とともに起き、太陽に向かって礼拝をしたことの記憶が、いわば「禊ぎ」に似た生理的感覚となって心の中に埋め込まれたのであろう。
 そんな祖父との思い出ばかりでなく、神社というものに対する不思議な感情、感覚は幼いころからずっとある。だから、僕の書く小説(しょうもないものばかりだが)には、なぜか必ず神社が出てくる。
 大学の時は図書館で祝詞を読みこなそうと努力したこともある。祝詞とは、ものすごく簡潔で詩的な宇宙論なのだ。一元論にして多神教。神道はもっと見つめ直されてよいし、そのような機運も高まっているのではないだろうか。
 たまたま、我が敬愛する松村潔さんも『日本人はなぜ狐を信仰するのか』(講談社現代新書)に続いて、こんどは東北学や折口信夫、平田篤胤、本居宣長などが登場する著書を執筆中らしい(あくまでも「らしい」です)。う〜む、楽しみだ。
 それだけに、ネーションと宗教を一体とする小泉くんみたいな人は嫌いです。それは野卑な詩想の投影にすぎないじゃないか。ま、小泉くんはX-Japanとワグナーが好きな人だからね。どっちもいいけど、両方とも好きってのは問題だろう、やっぱし。
 ということで、みゆきお姉様。今後もいろいろ教えてくださいませ。

太田穣

1 Comments:

Anonymous Anonyme said...

Hey what a great site keep up the work its excellent.
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2:48 AM, août 13, 2006  

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