mardi, novembre 28, 2006

安倍くん、引っ越し[Minoru Ota]

 おとつい、ご近所の安倍さんが永田町のほうについに引っ越しされた。
 24時間、我が家の前をのっさりのっさりとパトロールされていた警察官の方々の姿も忽然と消えました。なにやら嬉しいような、寂しいような。
 安倍さんは渋谷の東急ハンズでお買い物したようで、ニュースでその姿を拝します限り、僕とまったく同世代の男の典型のようでありますが、以前にも申し上げたように、国家というフィクションに酔っている、あるいは自己同一化しているらしきところが、どうにも気に入らない。同世代だけに余計に気に入らないのだ。
 谷崎潤一郎の小説を読んでいくと、ヨーロッパへの崇拝にも似た憧憬が、あるときから影を潜め、こんどは日本的なものへの憧憬へと変わっていく。そういう谷崎的な「美しい国」ならよいのだ。このときの「国」とは善も悪も、美も醜も、芸術的衝動によって生み出されたありとあらゆるものの「眺望」であるといえる。それはだれかが所有すべきものでもなく、だれかが誇るべきものでもなく、ましてや国境の内側に囲い込むものでもなく、自然物のようにそこに見出されるもののことだ。わたしたちの身体にすら、それは見出される。言いかえれば、きっとそれは宇宙から見た地球のように、地球から見た日本として見出される。
 それはときとして反国家的なものですらある。それを「愛国」の対象とすることは、美や悪についてまともに考えたことのない単純人間の発想だし、僭越至極とはこのことだ。
 地球上を見まわすとき、最大の悪のユニットとなっているのは国家であることはだれの目にも明らかだ。すこぶる単純だ。なぜ、そういう目で国家というものを見つめてみないのだろう。
 エンツェンスベルガーは、国家とは暴力の独占であると言ったけれど、その国家の姿も21世紀に入ってからは見えにくくなっている。たとえば、アルカイダという組織もまた、ある意味ではネットワーク上に存在する国家といってもよいのではないだろうか。
 そのような国家が強要するテロは、無慈悲である。「蒼ざめた馬」のような、内面を持った人間はもはや現代においてはテロリストにはなれないのだ。
 どんどん話が飛躍してしまったが、僕は安倍くんに言いたい。日本のことはほっといてくれ!! 余計なお世話だ!!

太田穣

lundi, novembre 27, 2006

秋はぎんなんです[Izumi Shoji]

 寒いですね、みなさま体調はいかがでしょうか。
 風邪気味なひと、寝冷えでおなかがいたいひと、秋の夜長で飲み過ぎて二日酔いのひとなどなど、まわりはみんな調子が悪そう。お大事に!

 11月も終わりというのに、秋ですね〜、なんて言うのもどうかと思うが、紅葉も銀杏も最近まで青々としていたのが、やっと秋色になってた。三つ子の魂百までというが、小さい頃に銀杏の茂る公園に母と姉とでぎんなん拾いに行って以来、銀杏が好きだ。私にとっての日本の秋は、紅葉より銀杏です! 



 ぎんなんを食べるのも好き。茶碗蒸しに1〜2個入ってますよね。庄司家では茶碗蒸し一人分に5個ずつ。ケンカにならないようにかっきり5個。「それ以上食べると鼻血が出るけぇね」と母に戒められた。
 大人になるっていいですね! 一人暮らしを初めてすぐ、居酒屋さんで銀杏の塩炒りを思う存分食べたときは幸せだった。10〜15粒は食べたが、鼻血は出なかった。
 とはいえ木の実だからカロリーや脂質は高いはず……、と、今改めて食品成分表で調べてみたら、なんと! アーモンド100gが598kcalに対し(ま、ふつう100gはどう考えても食べないが)、茹でぎんなんは166kcal。ほかのナッツ類は脂質50gはあるのに、ぎんなんはわずか1.3g。なんてヘルシーな食材なの!? 母に騙された……。ああでも言わなきゃ、ぎんなん好きの我々を制止できなかったのだろうが……。
 いくら食べても鼻血がでないこともわかったし、秋ですし、ぎんなんごはんでも炊くとしよう。たぶん家族は誰も喜ばないから(←と、勝手に決めている)、独り占めするといたしましょう♪

庄司いずみ

samedi, novembre 18, 2006

豆乳ラブ♪[Izumi Shoji]


 すっかりご無沙汰してしまいました。時間にも気持ちにも余裕がなくて……。特に素敵な話題があるわけでもないですが、このままだと永遠にさぼり続けてしまいそうだから、今日のお昼ごはんでも紹介します!
 大好物の豆乳のクリームパスタ。ありもの野菜をささっと炒め、豆乳を注いで軽く煮込み、味をつけます。塩味だとさっぱり、醤油味だとコクが出て、味噌味だとまろやかな味に。水でのばさないこちらのバージョンは、かなりリッチな味わいです。醤油味の豆乳ソースに粒マスタードを混ぜると、ますます濃厚な味になりますよ〜。
 炒めるのじゃなく、水で野菜を煮込み、そこに豆乳を注いだソースだと、さっぱり軽めの優しい味に。こちらは体調が悪い時にいいです。
 とろみをつけたい時は、粉寒天を水で溶いてから加えましょう。かたくり粉などだとドロドロになりすぎるので、私としては寒天がイチオシ。

 シチュー、グラタン、クリームソース、カフェオレなどなど、牛乳や生クリームを使うレシピはなんでも豆乳で代用できます。乳製品のとりすぎは婦人科疾患の原因にもなるそうだし、豆乳バージョンのほうが生ぐさくなくておいしいです!
 そうそう、豆乳レシピでもう一つおすすめは”なんちゃってトンコツラーメン”。私はラーメンスープも超適当に手作りするのですが(昆布だしにお醤油やすり下ろしニンニクやすりゴマで味付けるだけ)、このラーメンスープに豆乳をドドボッと注ぐとあっという間に、トローリ白濁したとんこつスープもどきが完成です。ダイエット中でも、とんこつラーメン、我慢しなくていいんです! ラーメンスープの手作りが面倒なら、市販のラーメンスープを使ってもたぶん大丈夫。やったことないけど、塩ラーメンのスープなら豆乳と合いそう。どなたか試して味を教えてくださいませね。

庄司いずみ

mercredi, novembre 08, 2006

私はさなぎ [Miyuki]

 蝶や蚕など、さなぎの時期を持つ生き物があります。
 イモムシとか毛虫のような幼虫を経てさなぎとなり、しかるべき時間が経つと幼虫とは似ても似つかない成虫に変態する、あれです。
 「完全変態」とよばれる変化だそうです。
 どうやらかれらは外見だけでなく、体内の器官からはたらきから、「さなぎ前」と「後」で、まったく異なるものになってしまうらしい。
 幼虫の頃にあった消化管や、蚕の場合なら蚕糸管なんかも、成虫ではまるっきり消失してしまっているという。
 「へー」と思ったら、手っとり早い確認方法(?)はさなぎを見つけて解剖してみることでしょうが、私にはちょっとできかねるので、物の本を当たってみました。

 学者ならずとも、好奇心旺盛かつ蛮勇をふるえる一般人で同じことを考える人はけっこういるらしく、「さなぎを開けてみました」という報告はいくつもあった。おそるおそる読んでみると、皆、異口同音に「ドロドロの液体が出てきた」という。
 つまり、幼虫はさなぎの中でいったん液状にまで溶け、アミノ酸レベルにまで分解されてから、成虫となる材料を提供するというのです。

 これはたとえば、幼虫にしてみれば、いったん死ぬのも同じことと言えるのではないでしょうか?
 幼虫と成虫、構成されている成分は同じでも、まったく異なる2つのモノ。さなぎになることによって、かれらは死に、そこから再び生まれ変わっているわけです。

 ヒトも、エネルギー不変の法則によって形を変え、時を超え、もしかしたら生き続けている存在なのかもしれません。
 完全変態する先を知らないから、恐怖におびえたり、嘆き悲しんだりしているだけかもしれません。
 私もいま、さなぎの状態に入っているような気がしています。

庄司みゆき

lundi, novembre 06, 2006

父と母を思い出して……[Minoru Ota]

 父を亡くして12年になる。母はその数年前に亡くした。
 ときどき考える。父は、母は、今どこにいるのだろうかと。
 二人は天国にいると答えるのはあまりに怠惰だ。だが、天国があったらどんなにかよいだろうとも思う。
 地上と同様の法則に則った、地上の写し絵としての世界──天国。
 が、おそらく、そんな地上そっくりの天国など存在はしないだろう。
 シュタイナーは確か、こんなことを言っていたと思う。
 死者のことをわたしたちが思うとき、死者はわたしたちを思い出す、と。
 おそらく、そこはイデアの世界のようなのだろう。
 4次元の軛につながれた、わたしたちの意識・思考では理解することのできない、上位の世界なはずだ。
 命とは、心とは、まったく不思議である。その上位の世界と生きながら結ばれているからだ。つまり、死は生を貫いている。だから、魂と呼び、霊と呼ぶのだろう。
 またしてもシュタイナーによれば、かつて人間はいわゆる霊界と明媚に結ばれていた。すべての人間には霊界が見え、霊界の声を聞いたという。だが、そのために、そこに人間の「主体」はなかった。
 魂の進化には「主体」が必要だった。人間は霊界との間にベールを垂らした。「自由」を求めて。
 こういった考えにはシュタイナーのキリスト教的意識の投影があるかもしれないが……。
 僕は毎日のように死んだ父や母のことを考える。
 そのたびに、彼らがいかに立派な人間であったかを知る。一方で、僕がいかに下等な人間であるかを。
 いずれにしても、死はいかなるかたちであっても、それは「成就」なのだと思う。彼は、彼女は、必然を全うしたのだ。それは当の死者もまた知らぬ「成就」なのではあるまいか。
 とにかく、成功でも失敗でも、嬉しくても悲しくても、好きでも嫌いでも、今日を生きようと思う。まずは父と母のために。

太田穣