安倍くん、引っ越し[Minoru Ota]
おとつい、ご近所の安倍さんが永田町のほうについに引っ越しされた。
24時間、我が家の前をのっさりのっさりとパトロールされていた警察官の方々の姿も忽然と消えました。なにやら嬉しいような、寂しいような。
安倍さんは渋谷の東急ハンズでお買い物したようで、ニュースでその姿を拝します限り、僕とまったく同世代の男の典型のようでありますが、以前にも申し上げたように、国家というフィクションに酔っている、あるいは自己同一化しているらしきところが、どうにも気に入らない。同世代だけに余計に気に入らないのだ。
谷崎潤一郎の小説を読んでいくと、ヨーロッパへの崇拝にも似た憧憬が、あるときから影を潜め、こんどは日本的なものへの憧憬へと変わっていく。そういう谷崎的な「美しい国」ならよいのだ。このときの「国」とは善も悪も、美も醜も、芸術的衝動によって生み出されたありとあらゆるものの「眺望」であるといえる。それはだれかが所有すべきものでもなく、だれかが誇るべきものでもなく、ましてや国境の内側に囲い込むものでもなく、自然物のようにそこに見出されるもののことだ。わたしたちの身体にすら、それは見出される。言いかえれば、きっとそれは宇宙から見た地球のように、地球から見た日本として見出される。
それはときとして反国家的なものですらある。それを「愛国」の対象とすることは、美や悪についてまともに考えたことのない単純人間の発想だし、僭越至極とはこのことだ。
地球上を見まわすとき、最大の悪のユニットとなっているのは国家であることはだれの目にも明らかだ。すこぶる単純だ。なぜ、そういう目で国家というものを見つめてみないのだろう。
エンツェンスベルガーは、国家とは暴力の独占であると言ったけれど、その国家の姿も21世紀に入ってからは見えにくくなっている。たとえば、アルカイダという組織もまた、ある意味ではネットワーク上に存在する国家といってもよいのではないだろうか。
そのような国家が強要するテロは、無慈悲である。「蒼ざめた馬」のような、内面を持った人間はもはや現代においてはテロリストにはなれないのだ。
どんどん話が飛躍してしまったが、僕は安倍くんに言いたい。日本のことはほっといてくれ!! 余計なお世話だ!!
太田穣


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