lundi, décembre 05, 2005

「はてしない物語」論-2[Ota]

「はてしない物語」のプロトタイプはツリー状のものとなるだろう。
 物語の発端があり、それに続いて、匿名の投稿者が決められた文字数の範囲内で書かれた物語の断片をつないでいくのだ。
 その分岐は二つとする。つまり、発端から物語は二つに分岐し、それがまた4つに分岐し、それがまた8つに分岐しというように、分裂を繰り返す細胞のようにどこまでも分岐していくのだ。
 誰が次に物語をつなぐか、それは早い者勝ちだ。分裂を独り占めする者もいるかもしれない。しかし、枝の数が膨大になったとき、さすがの物語の独裁者も音を上げるに違いない。
 物語は整合的なつじつまを欠き、やがてはまさに2チャンネルのような掲示板みたいになっていくかもしれない。だが、それでも分岐は止まないのだ。そのすべてを飲み込んで、壮大な連関が生まれるはずなのだ。意図するものは分岐を利用してすり抜け、逃亡する。呼応し合う者どうしは、一つの枝の生命にだけ言葉をそそぎ続けるだろう。
 このツリー構造を文字通り樹木にたとえれば、いつしか分岐が途絶える「忘れられた枝・枯れた枝」ができるだろうし、一方でどこまでも分裂を繰り返す、いわば幹のようなスレッドもできるだろう。
 その幹はどんな幹だろうか。性的で暴力的で窃視者的なものになるのだろうか。予断はやめよう。この分裂が完全な自由に委ねられたとき、いったい、どんな相貌を見せるのか、けだし興味津々ではないか。
 個人の想像力に対応する集団的な想像力というものは存在するのだろうか。いな、想像力とはもともと集合的なものではないのだろうか。
 感覚によって虚構される「個体・個人」という幻想を、このアナーキーな物語の樹木が浮かび上がらせるのではないかという関心が僕にはある。そしてまた、物語とは何か、小説とは何か、作家とは何か、書くとは何か、それらの命題に対して、この「はてしない物語」は根源的な何かを突きつけるような気がしてならない。もちろん、僕は一人の人間が孤独に紡ぐ物語を決して否定するものではないが。
 次回もまた、この「はてしない物語」についての僕の構想をここに書こう。インターフェースやアルゴリズムなどについてなども説明できればいいなと思う。
 いずれにしても、いまだ夢想に過ぎないのだが。

太田穣