lundi, janvier 30, 2006

ア・パリ〜続編[Ota]

 昨年末に掲載した、我が初の海外旅行にして海外取材となったパリについての話が中途のままであった。続けよう。ん? 「えっ、また、パリかよ〜」という舌打ちが聞こえたが、言ったのはきみ?
 さて、一行はホテルの一部屋を二人ずつ使うことになり、僕は山田五郎氏と同室となった。
 山田五郎氏はテレビですらその輝く知性のオーラが際だつが、実際、学生時代はドイツに遊学。ために、ドイツ語どころかフランス語、英語も堪能とくる。しかもファッションにうるさく、文学にも造詣深く、だのに気取らず、エッチなギャグも平気でかます。
 そんな山田五郎氏であったが、僕が同じ部屋にいるにもかかわらず、遠慮無く放屁するにはまいった。僕はこう見えても、繊細で内気なところがあるので、他人の前であやまって放屁をしたら、きっと舌を噛んで自殺したくなるタイプであった(オヤジ化した現在は、娘と二人で放屁競争して点数を付け合って遊んでいるが)。
 さて、パリ到着の翌日はモデルのオーディションであった。
 コーディネーター事務所を通じて、モデルクラブばかりでなく、エコール・デ・ボザールなどの美術大学でも募集の告知をしてもらった。そのために、想像した以上の数の応募者が集まり、面接場所としたコーディネーター事務所の入ったビルの外まで行列ができてしまったのだ。おそらく、その数は100人を優に超えていたと思う。
 そのオーディションが実に面白かった。
 みなが思い思いのファッションでやってくるし、それぞれの個性がユニークすぎる。女装して自身のアンドロギュノス性に酔っている男のコ、自作したバイキング風衣装のスウェーデン人の女のコ、完全に勘違いしているアメリカ人の男の子、こんなに美しい人がいるのかと驚いた英国美女……。
 一人5分ずつ話を聞いたとしても500分、8時間ですよ。たぶん、途中から、「はい、次〜、はい、次〜」となった気もする。
 最終的に選ばれたのは、いかにもフランスっぽい知性とオシャレ心がただよう男の子(たぶん19歳ぐらいだったか)と、小柄でぽっちゃりとした高校生の女のコだった。
 オーディション翌日から本格的な撮影と取材が始まった。
 とにかくいろんなところに行った。
 ミッテラン大統領になってからは規制緩和で誰もがFM放送ができるようになり、そたのめに数え切れないほどの放送局があった。その中でも一番の人気を誇っていたNRJ(エナージーと読む)を訪れた。また、若きアーチストたちが巨大な倉庫を借りて共同生活しているケ・ド・ガールというところも訪ねた。
 中でもアヌーシュカという女性の取材は忘れられない。
 彼女は世界で一番有名なスタイリストといってもよい存在だった。ファッション誌で活躍する一方、アンジェイ・ワイダを始めとした巨匠たちの映画の衣装をつとめるなどしていた。
 僕らは彼女のアパルトマンを訪ねた。とても立派なアパルトマンで、古いヨーロッパ映画でしかお目にかかったことのない、アールヌーボーの美しい鉄製のエレベーターが吹き抜けを貫いて昇っていくさまに僕はうっとりとした。
 彼女は衣装部屋に僕らを通した。そこだけでも、僕の今住んでいるマンションの4倍はある!! 広いのだ。そして、その空間は、ありとあらゆる時代の衣装とアクセサリーと靴とでびっしりと埋めつくされていた。もちろん、自分が着るためではない。雑誌や映画に貸し出すためにコレクションしたものなのだ。
 アヌーシュカは靴の一つ一つさえもその出自を詳しく解説できた。これは1920年代の靴でどこそこでつくられ、だれそれが映画ではいてた、などなどと。
 そんな取材の日々。1日の最後は必ずみなで酒を飲んで酔っぱらった。常にまず僕が酔っぱらって眠ってしまい、ロケバスの中に一人置き去りにされる。目覚めると誰もいない。やがて、心配してジェレミーがようすを見にやって来る(優しいやつだなあ)。で、太田大魔神復活で飲みに行く。すると、そこではカメラマンの佐々木教平さんが酔っぱらって、今にも倒れそう。太田大魔神、一周遅れを挽回、教平に勝つ。酔っぱらっちまえばパリも新橋も新宿も変わりはない。
 そんなパターンが夜な夜な続いた。
 帰国前日、僕らはピンボールで賭けをした。勝ち抜き戦で負けたものがピアスをすることになった。
 ジャンケンで順番を決めた。僕が最後だった。戦いは始まった。皆必死だった。だって、日本じゃ男でピアスしてるなんて、当時は歌手のピーターぐらいじゃなかったか。
 カメラマンのアシスタントさんが負けに負け続け、僕との勝負でピアスの行方が決まることとなった。彼の顔は青ざめ、額には汗がにじみ、目は真剣であった。僕は思った。オレ、負ける。
 案の定、僕は負けた。
 僕はジェレミーに連れられてレ・アールのピアスショップに行き、店員のお姉ちゃんに鉄砲みたいなものでバスッと耳たぶに銀のピアスを打ち込まれた。そして告げられた。化膿するから最低一ヶ月ははずさず、かつ消毒を怠らないこと。
 帰国後、電車の中でも、町を歩いていても、我が耳たぶに注がれる周囲の視線が痛かった。おそらく、当時、日本国でピアスをしている男はきっと100人もいなかったに違いない。でも、僕は頑張った。僕は歴史を作ったのだ。僕はパイオニアなのだ。男ピアスのエバンジェリストなのだ!! オリックスの清原よ、いま、きみがあるのも20年前の我が耳たぶの受難があれぼこそなれ。



↑彼女がアヌーシュカさんである。

太田穣