lundi, mars 20, 2006

80年代のことを書こうとしてたら……[Minoru Ota]

「80年代の若者文化を当時のHotDogPRESSの作り手から見ると」というテーマで原稿を書かなくてはいけない。で、まだ、書いていない。むずかしい。あのころを思い出そうとしても切れ切れの情景が浮かぶばかりで、ストーリーやなにがしかのテーマをもったエピソードとなると頭の中は真っ白になってしまいます。この真っ白のときの僕をだれかが見たら、きっと、ポカンと口を開けて宙の一点をボーッと見つめているひとりのアホのオッサンをそこに認めることだろう。
 オー、脳!! おまえはいったい、なんのために頭にあるんだ!! オレが食った飯から分解抽出した栄養、オレが呼吸して取り込んだ酸素の大半をおまえは食らっているくせに、なんでこんなときに肝心なことを思い出してくれないんだ!!
 まあ、オレがHotDogPRESSで原稿を書き始めたのは1980年であるからして、もはや四半世紀前ということになる。最近ガタピシしてきた我が脳、限界なのかも知れぬ。
 というわけで、書架(そんな立派もんじゃねえが)より取り出したるは我が心の師匠、作家・永倉万治氏の2000年発表の小説『アルマジロの日々』(幻冬舎)。これは永倉さんの30代半ばの心をつづった長編である。執筆時の長倉さんは50歳を越えていたと思うから、つまり、これは1980年代前半の物語となる。永倉さんがライターとして仕事をこなしていた日々が、永倉さんならではの人物活写によってときにユーモラスに、ときに切なく物語られる。
 ここには当時のHotDogPRESS編集部がいきいきと描かれている。僕はそれを読んで自分の記憶に電気ショックを与えようと思ったのだが、はからずも、別のショックを覚えてしまった。
 この小説はほぼ実際にあったことに即しているのだろう、ほぼ、全員が実名で登場する。いとうせいこう、山田五郎、萩原健太、野々山雄高、栗本慎一郎、浅葉克巳などなど。で、実は僕も登場するのだが、僕だけは仮名だ。太田穣ではなく、太田譲治となっている(こっちのほうがかっこいいなあ)。これは自分だってことは永倉さんから聞いている。電話があったのだ。
「太田君、こんどの小説に君のこと書いたからさ。怒んないでね。で、本は自分で買ってくれ」
 なんで僕が怒るのかなあ、と思って書店で買ったばかりの『アルマジロの日々』を読み始めたら、理由がわかった。僕に関係するあるシーンだけがかなり誇張されている。すなわち、オートバイを無免許運転していた僕は警察とのカーチェイスのあげく、HotDogPRESS編集部で逮捕されたことになっているのだ!! 永倉さんっ!! オレ、カーチェイスなんてしてないってっ!! おそらく、このフィクションに遠慮して「穣」を「譲治」に変えたのではあるまいか。
 昨日読み返して、ついつい、自分の名前が登場してくる箇所を追ってしまった。そして、それらを読み返しているうちに、胸がふさがれたようになり、目頭が熱くなっていったのだ。
 永倉さんはこんなふうに書いていてくれた。
《太田は旧約聖書に出てくるヨブだ。次から次に災難に見舞われるヨブだ。僕は、そんな太田が好きだ。不運な人生を健気に生きる男が好きなのだ。可哀想に思うけれど、なんとなくおかしくもある。太田が目の前を通り過ぎるだけで哀愁を感じるのだ。》
 発刊当時に読んだときは、「へえ、永倉さん、オレのことをそう思ってたんだ」としか思わなかったが、今思えば、永倉さんと僕はずっとつきあいがあったので、2000年の時点での僕をも見て、そのように書いてくれたのではなかったのかと思うのだ。
 なんとうれしいことか。僕は今もまた胸がいっぱいになる。
 この小説の根底にあるのは当時の永倉さんが抱えていた焦燥に似た何かだ。彼は、時として日々のよるべなさに苛立ち、こんな言葉を吐く。
「三十五にもなって、俺は何もしていない! 何故だ? どうしてだ? 三十五にもなって、俺は何もしていないんだ! 俺は……」
 この言葉はまっすぐ僕に向かって突き進んでくる。俺もまた、何もしていない……。
 ありがとう、永倉さん。
 この『アルマジロの日々』が書店に並んだ数ヶ月後、永倉さんは帰らぬ人となった。
 でも僕の住所録にはまだ永倉さんの名前が残っている。僕はたぶん、ずっと彼の名を消さない。

太田穣