mardi, mars 07, 2006

未読日記[Hitoshi Oba]

未読書日記

3月某日
 整形外科に行ったついでに近所の本屋をのぞいてみる。小川洋子『博士の愛した数式』の文庫本が平積みになっていて、「文庫本たちまち百万部突破! 近日映画公開」とかいうポップが立っている。小川洋子はわりと興味のある作家なので実は単行本を持っているのだが、なぜかタイミングが合わず、未読のままになっている。宣伝など見ていると「泣けるいいお話」のようなのだが、しかし、ひねくれ者の腐れ中年であるオーバは密かに疑うのだ。ホントにそれだけの話なのか? オーバの理解する小川洋子は結構日常の微かな悪意や落とし穴(一見「微か」なだけに、かえって怖かったりする)を書いている作家だったような気がする。『博士~』が「いいお話」であっても一向に構わないし、オーバだって人並みには「いいお話」が好きなつもりである。ただ、ここ数年の「泣けるいいお話」の氾濫にはいささかウンザリ、である。そういう宣伝がされている作品はそれだけでのぞく気も失せる。しかし小川洋子の作品である。売るためにはこれに限る、ということで『博士~』の「いいお話」の部分だけが突出して喧伝されている、なんてことはないのだろうか。帰宅して確かめようと思ったのだが、なにせ整理整頓力ゼロの人間である。十分ほど探して諦める。しかし皆さん、なんでそんなに泣きたいんでしょう?
3月某日
 同じようなことが川上弘美『センセイの鞄』にもいえるように思う。「おとなしめの『失楽園』」みたいな感じで泣きながら読んだ勘違いオヤジが相当数いたおかげで、あれだけのベストセラーになったということはないんだろうか。これは一応読んでいるので断言気味にいうのだけれど、あの小説でどうやってそういう勘違いができるのか!? そりゃ小説なんてどんな読み方をされても構わないわけだし、好きな書き手の作品がベストセラーになって、その結果メジャーな作家になることは嬉しいことではあるんですけど。オーバの偏見では、川上弘美の本領はちょっとシュールで妖しい短編にある。そんなわけで短編集『龍宮』の単行本も喜び勇んで買ったのだが……。これもなぜかタイミングを失して未読。おまけにこの本ももう文庫になっている。あやふやな記憶では『博士~』の近くに埋もれているはずなのだけれど。
3月某日
 あいかわらず整形外科だけはマジメに通っている。ただ残念なことに、ここのところ愛しのコレア姉ちゃんはとんとお見限り。もっぱらホスト風兄ちゃんのお世話になっている。この日はワールド・ベースボール・クラシックという催し事があるのを教わる。そういえば小川洋子さんは熱烈な阪神ファンであったことを思い出す。帰宅後、『博士~』捜索に再トライ。思いがけず町田康『告白』を発見する。もちろん未読。これはもともと読売新聞の連載小説で、終了後大幅に加筆、という作品。六百ページ以上という大作である。とても現在のへろへろ状態では読めそうもない。そんなことは実は買うときからわかっていたのだ。ただ、「本は本屋さんにあるうちに買っておかないと」とか理屈をいって買ってしまうのである。そうやってエントロピーはどんどん増大する。ちなみにその前の長編『パンク侍、斬られて候』は、これはもう滅茶苦茶な傑作でした。自信をもってお勧めします。ただし不思議なことに、オーバは人に本を勧めて感謝されたという経験がほとんど皆無なのである。なんでなんでしょう、神様。
3月某日
 なんだか冴えない日々なので景気づけに古書ネットで注文したレーモン・クノー『青い花』が届く。オーバが注文する本としてはちょっとお高い。いえ、そんなに大したことはないんですけどね。って、誰に言い訳してるんだろう、私は? どこかで見たようなフレーズだが、あまり気にしないで先に進むのであった。クノーは「言語のあらゆる可能性に挑戦した」みたいに紹介されることの多い、フランスの作家である。そんな事情もあるのか日本語訳された作品はあまり多くないようなのだが、『地下鉄のザジ』(生田耕作訳、中公文庫)は、訳者の力量の与るところも多いのだろうけれど、思い切りぶっ飛んでいて大笑いの傑作である。ご存じの方も多いだろうけれど、ルイ・マル監督で映画化もされている。もう二十年近く前になるか、新宿の映画館で「ルイ・マル特集」みたいなプログラムで見て、あんまり面白いので三、四回通った記憶がある。ちなみに同時期にやっていた『死刑台のエレベーター』も『鬼火』も見ていない。お笑いに偏った、というか我ながら趣味の狭い人間である。まあ、映画の話はいいとして、クノー作品で文庫化されている本に『イカロスの飛行』(滝田文彦訳、ちくま文庫)というのもある。これまた楽しい愛すべき作品なのだが、これがけしからぬことに、というほど偉そうな口がきける立場ではないのだが、絶版である。ちくま文庫はすごく面白い本がいっぱいあるのだけど、異様に絶版率が高いと思うのは気のせい? いまやどこの文庫も同じようなものなんだろうか。そんなこともあって前述の「本屋さんにあるうちに」なんて殊勝みたいな言い訳もするようになるのである。なんだかだらだら書いているけれど、要するにクノーは「言語、文体の鬼」みたいにいわれることもあるけれど、翻訳された作品はとても面白い、少なくともオーバには、ということです。で、『青い花』である。これも昔に筑摩書房から出ていた本で、オーバの嗅覚では面白そうなんだけど、文庫化される気配もない。で、ついついネットで買ってしまいました、パソコン超原始人のワタクシが。訳者はやはり滝田文彦。この方についてはほとんど知るところがなかったのであるが、この本の「あとがき」によると、一九六九年当時は東大の先生を勤めていらっしゃったらしい。「東大紛争という歴史的な事件の間にこの難解な小説を心を静めて訳しました」みたいなことが書いてある。もしかして、戦時中にラブレーを粛々と訳していた渡辺一夫を意識してるところもあるんだろうか。で、興味津々、作品の最初を数ページ読んでみると……うーむ、面白い、面白すぎる、ような気がする。これこそは心技体が充実しているときに読み込むべき傑作である、と思い、とりあえず本棚のまだ何が入っているか比較的把握できている場所に押し込む。そんなことをしてまた未読書がふえてくわけなのね。でもこの本はしつこいけど、ちょっとは高かったのである。読んでないうちに文庫が出たりすると、ケッコー腹が立ちそうに思う。せこい話ですみません。
3月某日
 でもって、ラブレーである。一時期かなり凝りかかった。もちろん読んだのは渡辺一夫の渾身的超絶技巧的名訳とされる岩波文庫『ガルガンチュアとパンタグリュエル』シリーズである。素直に凝ったと書けないのは、この本がすごくムズカしくて、笑えるところは確かに抱腹絶倒なのだけれど、わからないところは全然わからなかったからである。そもそもラブレーというのはジョイスみたいな人で、いや時代はまったく逆なんだけど、書き言葉としてまだ確立すらされていないフランス語で、ジョイスの遠いご先祖様みたいな人が、ギリシャ語だのラテン語だのから勝手に造語もどんどんして物語を書いちゃいました。書いてみたら自分で思ってた以上に面白いので、どんどん続きも書いたんだけど、しまいには巨人の話だかなんだかわからなくなっちゃいました。おまけに凝り性なものだから、新しい版が出るたびに加筆とか増補もしちゃいました。「井伏鱒二か、お前は!?」とか突っ込まれるかもしれないけど、井伏は大半が削除と推敲だろうけど、俺は面白がってどんどん増やしちゃっただけだもんねー、ってなものである。このへん、主語があいまい。いちばん疑うべきは書き手のオツムである。とにかく熱中したことは確かで、「ラブレーを訳すのに一生かけちゃったみたいな先生って、どんな人なんだろう」と思って『渡辺一夫著作集』の揃えまで買っちゃったくらいである。探せばまだあるはずである。押入れのどこかに。ごめんなさい、センセイ。とにかく「異なる言語に訳すこと自体がパンタグリュエル的冒険」といわれる変てこさ無類の作品らしい。ところが昨年から、その新訳が出始めたのだ。宮下志朗先生によって「あの」ちくま文庫から。これは義理にも買わなくちゃ、と思って二冊目の『パンタグリュエル』を笹塚の紀伊国屋で購入。さっそくのぞいてみたのだが……うーん、渡辺訳との違いというか、新訳のありがたさが今ひとつわからない。渡辺訳では巻末に固まっていた訳注がページごとに入っているのは親切なんだけど、それも恩知らずにもうるさいような感じもしてしまうし。なにしろ子どものころ(大学生だったかな)に読んだのが渡辺訳だから、それにインプリンティングされてるだけかもしれないし。いずれ渡辺訳と比べて読んでみよう、なんてことはまずしないだろうから、フランスかぶれ野郎たる太田師匠にでもいつか教えてもらおう、と思いながら本棚の「なんとなく外国文学のコーナー」に押し込む。と、入れ替わりに落っこちてきたのがイタロ・カルヴィーノの『柔らかい月』(河出文庫)。これも長らく絶版で探してたのを河出書房新社が出してくれて、待ってましたと買ったんだけど、やっぱし未読。カルヴィーノも好きな作家のはずなんだけど、未読率はかなり高い。あのころの情熱はどこにイッタロー・カルヴィーノ、なんちゃって。死のう……。
3月某日
 昨晩は大失態であった。伊集院光先生の「魂のラジオ」たる「深夜の馬鹿力」、いつも正座してお聞きするところを、つい横になりながら聞くなどという罰当たりなしわざのせいで、開始十分ほどで寝てしまったのである。かなりの痛恨事なのであった。ホントに罰が当たったのか、整形外科のマッサージは、またもやホスト先生。イチローのことなど、少しお話しする。帰りに近所の本屋。スティーヴン・キングの新作らしい新潮文庫を見つける。これが超長編シリーズらしく、本屋に並んでるのだけで七、八冊。完結すると十何冊かになるらしい。とてもじゃないけどこれはもう読む体力がないだろうと思い、タイトルも覚えずに帰路につく。太田師匠はあまり好きじゃないと書いていらっしゃったけど、実は一時期、キングは貪るように読んだのである。『IT』くらいまでかな。ガツガツと徹夜して読んだあのころ、若かったのね、もうその若さは戻ってこないのね……。
しみじみとしたところでブログの原稿でも書こう、と思った挙句がこの駄文である。おまけに膝元でガサガサする謎の物体が……。面倒なのを我慢して引っ張り出すと、去年の暮れだかにビデオ屋で揃いで売ってたのを衝動買いした岡野玲子『陰陽師』全十三巻である。これももちろん未読。だって各巻で岡野先生が陰陽道の色々などについて解説してくださっているのだけれど、そもそもそれが全然理解できないんですもの。オーノー! こんなところにも未読本が居んみょーじ!? すみません。本当に死にます。改行もしてないことに今気がついたんですが、もう死ぬんだから知りません。これが最後の文章かと思うと、われながらはかない人生であったことよのう。ごめんくださいまし。

大場仁史