編集とはなんじゃ?[Minoru Ota]
小難しい話をしたいわけじゃないが、脳タリンの我が輩、簡単に説明能わぬゆえ、どうしても難しい言い回しになってしまう。許してくれたまえ。
で、何の話かというと「編集とは何か」という話だ。過去ブログで庄司いずみが「編集は何ごとにも通ず」みたいなことを我が輩が言っておったと書いていたが、ま、その解説であります。
いい加減な拡大解釈だとのご意見があろうかとも思いますが、僕は作曲や絵を描くことや、建築や映像制作や、あるいは漫才やコントや、小説や漫画や、あるいはパソコンの自作だって「編集」だと思うのだ。
辞典で「編集」を引けば、あるテキストをある方針に基づいて書物や雑誌などの形にすることとある。出版の現場で働く我らにとっては「編集」とは企画会議から始まって取材、構成、執筆、デザイン、入稿、校正、校了、お金の計算と、それはそれは多岐にわたる。が、これは「編集者の仕事」であり、僕のいう「編集」ではない。
定義してしまえば「ある構造を時空間化すること」っつうのが僕の言いたい「編集」だ。あ、「難しいこと言って煙に巻くんじゃねえ、このハゲ野郎!!」っていう罵声がいま聞こえたような気がするが、冒頭にも申したように脳タリンゆえの難解言辞、ご容赦を。
さて、この定義に従えば、悲しみの感情なんてのも「編集」なんです。悲しい出来事というのは時間的なものですが、悲しみの感情そのもの、あるいは悲しみそれ自体というのは時間的なものではない。記憶は脳内に蓄えられているから空間的なものかといえばそうでもない。なぜなら、形がないからだ。それはいわば「構造」というパターンだろう。時間の中にも空間の中にもかたちとして存在しない、あるユニークなパターンだ。この悲しみという構造を、まるでポップアップを広げるようにして時間の中に展開することによって、人間は悲しみを肉体化するのだ。
音楽を考えればもっとはっきりとするかもしれない。
音楽とはどこにあるのだろう? たとえばバッハのゴールドベルク変奏曲という音楽はどこにあるのだろう? 楽譜の中? CDの中? それともピアノの中?
どこにもない。
あるいは太田穣・作詞作曲の「Boy」はどこにある? 今にも切れそうなカセットテープの中? 我が輩の思い出の中?
どこにもない。
音楽は体験できるが、音楽そのものは構造としてのみある。楽譜はその構造を言語で記述したものにすぎないし、演奏はその構造を展開することだ。音楽は時間上に展開されることで姿を現すが、その姿をとっつかまえて虫かごに入れとくことはできない。逆に、音楽の本体は構造だから、楽譜が無くても楽器が無くてもCDが無くても、頭の中で鳴らすことができる。
つまり、構造という、なんつーかイデアみたいなものを、感覚できるものに変換する作業が「編集」なんじゃないかと思うのだ。
原稿を書いている時を思いおこしてみると、そのとき誰もが我が輩のいう「編集」をしている。だから原稿を書くのは難しいのだ。
取材してきたことを脈絡無く箇条書きにするだけでいいのならどんなに楽な商売だろう。でも、我らプロのライターたるもの、面白おかしく、かつわかりやすく読みやすく書かねばならぬ。そのために、ウーンウーンうなって頭の中にいろんな「構造」をひねり出す。エピソードの並び順、枕にオチ。はっきりとはならないまでも、そのモヤのかかったような構造にしたがって、パソコンのキーを打つ。このときの頭の中に生み出した「構造」はフローチャートのように図示できるから時間的なものではない。同時に、彫刻なんかには還元できないから空間的なものでもない。なにやらわからないボヤボヤとしたものだ。でも、しまいにはそれがテキストになる。でも、テキストは最初から順番に読んでいけば時間的なものだが、飛ばし飛ばし読んだり、あるいはおしまいから読んでしまえば空間的なものとなる。けだし、そのテキストの故郷が「構造」である所以である。
あ、ここまで書いて、やっぱ書くんじゃなかったって思ってきた。これ、書き始めたら延々続くもん。しかも、面白がって読んでくれる方は皆無だろうし……。
というわけで、ここでやめておく。
だが、ひとつだけ言っておきます。文章がうまい人はきっと何やらせてもうまいと思う。そういう人は読書や芸術に触れてきたことによって「構造」というものを展開することに長けているはずだからだ。
何が言いたいかというと、甥っ子があまり本を読まないというので、「若者よ、本を読もう!! 音楽(いい音楽)を聴こう!! 絵画を見よう!!」とシャウトしたかっただけなんだけどね。メッセージよ、盛岡まで届けっ!!
太田穣


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