編集とはなんじゃ? その2[Minoru Ota]
先日、血管年齢78歳と診断されたばかりの太田であります。もし、私が脳梗塞などで急死した場合は、どうか会費制の盛大な葬式イベントを敢行し、最低でも数百万の黒字になるようにご協力お願いいたします。また、この黒字経験をもとに『もうかるお葬式のあげ方』という本を家内が出版してベストセラーという、二度おいしい葬式をしてくださるよう、皆様にはお願いしておきます。残した家族の生活を心配して、あの世に行ってまでもストレスがたまるなんてのはやっぱり御免被りたいですから。
てなわけで本題。黒部さんより『編集とはなんじゃ?』の記事に励ましのお便りをいただきましたので、その続編をば。といっても狭義の編集の話から遠ざかってしまいそうな……。
だいぶ前に読んだので最新の学説はどうなっているか知らぬが、プリブラムという大脳生理学者によれば、人間の記憶のありかたというのは、3Dホログラムに似ているのだそうな。3Dホログラムというのはご存知のように、物体を空中に映し出し、360度、前から後ろから左から右からでも見ることのできる立体映像のことですね。これにはホログラフィーという、光の干渉パターンを記録・再現するという方法が用いられる。詳しく説明する紙幅も能力も今はないので百科事典などで調べていただきたいが、すなわち、前回述べたようなパターン──構造こそが記憶のあり方だという学説なのだ。
記憶というと、脳の中でまるで図書館のように整理蓄積されているように思うかもしれないが、そうではなく、脳全体にわたって干渉パターンとして貯蔵されているのだ。だから、事故などで脳の一部が無くなるなどの損傷を受けた場合、記憶の解像度は低下しても記憶が完全に失われることはないのだ(記憶喪失はまた別問題)。
僕は人間の心、精神というのは、そんなパターン──構造そのものなのではないかと思ったりする。肉体という極めて複雑精緻な音叉の集合体のようなマシン上でひとときも止むことのない振動し続けるパターン(構造)。それこそが人間の心、そして生命なのではないかなあと思ったりするのだ。
言いかえれば肉体はステレオ装置。生命はそのステレオ装置が奏でる音楽だ。音楽が止めばステレオ装置は冷たくなる──死ぬのである。ということは、生命や精神が振動パターンだとすれば、その本質は顕微鏡で捉えることもできないし、写真に写すこともできない。これが生きてる人間です、と言って自分自身を指さしても、それは音楽を鳴らしてチカチカLEDが点滅しているステレオ装置に過ぎず、その音楽自体──生命は目には見えないのだ。
母の胎内で胎児に神秘的な一撃が与えられる。その打撃によって生命は振動を始める──もとい、振動が生まれて生命となる。その神秘の一撃はいつかは、それぞれの宗教や神秘学によって異なるけれど、輪廻転生を唱える多くのカルチャーでは分娩の瞬間とされているようだ。シュタイナーなどは分娩の数ヶ月前と言っていたんだっけか?
話を「編集」に戻そう。
わたしたち人間の心が、精神が、振動パターンという動き続ける構造であるならば、わたしたちが表出するものもまた限りなく振動パターン(構造)に近いものなのではないだろうか。音楽はそのもっともいい例だ。つまり、音楽は人間の心の、そして生命の似姿であるような気がする。
編集という作業が、人間のものを生み出す多くの行為に通底すると僕が思うのは、まさにパターン(構造)こそがわたしたち自身にほかならないからではないだろうか。
──わたしとは鳴りやまぬ音楽である。──
なんてえとかっこよすぎるか?
この鳴りやまぬ音楽を、死んだのちに超越的なメディアに移し替えることができれば、それは霊魂となる──のかもしれない。
もっともっと語りたいことはありますが、本日はここらへんで。
で、しつこいようで恐縮ですが、僕の葬式の会費は一人3万円ぐらいにしてほしい。で、友人一人が10人の参列者を連れてくる。なに、理由は簡単だ。葬式というイベントを異業種交流会にすればいいんだもん。
「故人へのお別れが終わりました方から、どうぞこちらのホールでの名刺交換会にご参加ください。本日は広告代理店、大手出版社、テレビ局の方が大勢お集まりになってらっしゃいます。フリーのライター、デザイナーの方々、売り込みのチャンスですよお!!」
って言えばいいんじゃない?
タイトルは「故・太田穣からの最後のプレゼント。仕事を増やそう、マスコミ異業種交流会in告別式」でキマリだあな。
太田穣







