mardi, août 29, 2006

編集とはなんじゃ? その2[Minoru Ota]

 先日、血管年齢78歳と診断されたばかりの太田であります。もし、私が脳梗塞などで急死した場合は、どうか会費制の盛大な葬式イベントを敢行し、最低でも数百万の黒字になるようにご協力お願いいたします。また、この黒字経験をもとに『もうかるお葬式のあげ方』という本を家内が出版してベストセラーという、二度おいしい葬式をしてくださるよう、皆様にはお願いしておきます。残した家族の生活を心配して、あの世に行ってまでもストレスがたまるなんてのはやっぱり御免被りたいですから。
 てなわけで本題。黒部さんより『編集とはなんじゃ?』の記事に励ましのお便りをいただきましたので、その続編をば。といっても狭義の編集の話から遠ざかってしまいそうな……。
 だいぶ前に読んだので最新の学説はどうなっているか知らぬが、プリブラムという大脳生理学者によれば、人間の記憶のありかたというのは、3Dホログラムに似ているのだそうな。3Dホログラムというのはご存知のように、物体を空中に映し出し、360度、前から後ろから左から右からでも見ることのできる立体映像のことですね。これにはホログラフィーという、光の干渉パターンを記録・再現するという方法が用いられる。詳しく説明する紙幅も能力も今はないので百科事典などで調べていただきたいが、すなわち、前回述べたようなパターン──構造こそが記憶のあり方だという学説なのだ。
 記憶というと、脳の中でまるで図書館のように整理蓄積されているように思うかもしれないが、そうではなく、脳全体にわたって干渉パターンとして貯蔵されているのだ。だから、事故などで脳の一部が無くなるなどの損傷を受けた場合、記憶の解像度は低下しても記憶が完全に失われることはないのだ(記憶喪失はまた別問題)。
 僕は人間の心、精神というのは、そんなパターン──構造そのものなのではないかと思ったりする。肉体という極めて複雑精緻な音叉の集合体のようなマシン上でひとときも止むことのない振動し続けるパターン(構造)。それこそが人間の心、そして生命なのではないかなあと思ったりするのだ。
 言いかえれば肉体はステレオ装置。生命はそのステレオ装置が奏でる音楽だ。音楽が止めばステレオ装置は冷たくなる──死ぬのである。ということは、生命や精神が振動パターンだとすれば、その本質は顕微鏡で捉えることもできないし、写真に写すこともできない。これが生きてる人間です、と言って自分自身を指さしても、それは音楽を鳴らしてチカチカLEDが点滅しているステレオ装置に過ぎず、その音楽自体──生命は目には見えないのだ。
 母の胎内で胎児に神秘的な一撃が与えられる。その打撃によって生命は振動を始める──もとい、振動が生まれて生命となる。その神秘の一撃はいつかは、それぞれの宗教や神秘学によって異なるけれど、輪廻転生を唱える多くのカルチャーでは分娩の瞬間とされているようだ。シュタイナーなどは分娩の数ヶ月前と言っていたんだっけか?
 話を「編集」に戻そう。
 わたしたち人間の心が、精神が、振動パターンという動き続ける構造であるならば、わたしたちが表出するものもまた限りなく振動パターン(構造)に近いものなのではないだろうか。音楽はそのもっともいい例だ。つまり、音楽は人間の心の、そして生命の似姿であるような気がする。
 編集という作業が、人間のものを生み出す多くの行為に通底すると僕が思うのは、まさにパターン(構造)こそがわたしたち自身にほかならないからではないだろうか。
 ──わたしとは鳴りやまぬ音楽である。──
 なんてえとかっこよすぎるか?
 この鳴りやまぬ音楽を、死んだのちに超越的なメディアに移し替えることができれば、それは霊魂となる──のかもしれない。
 もっともっと語りたいことはありますが、本日はここらへんで。
 で、しつこいようで恐縮ですが、僕の葬式の会費は一人3万円ぐらいにしてほしい。で、友人一人が10人の参列者を連れてくる。なに、理由は簡単だ。葬式というイベントを異業種交流会にすればいいんだもん。
「故人へのお別れが終わりました方から、どうぞこちらのホールでの名刺交換会にご参加ください。本日は広告代理店、大手出版社、テレビ局の方が大勢お集まりになってらっしゃいます。フリーのライター、デザイナーの方々、売り込みのチャンスですよお!!」
 って言えばいいんじゃない?
 タイトルは「故・太田穣からの最後のプレゼント。仕事を増やそう、マスコミ異業種交流会in告別式」でキマリだあな。

太田穣

mercredi, août 23, 2006

わたしが子どもだったころ [Miyuki Shoji]

 かごバッグ、かわいい、かわいすぎる。妹に発注したい。でも仕事のじゃまはできないし……。なんて悩みそうなほどいいですね。夏らしくてとっても素敵。

 さて最近、知り合いの4歳児におみやげをもらった。幼稚園も夏休み。家族で遠出をしたそうで、小さなピンクのウサギのぬいぐるみを選んでくれた。
 お母さんいわく「ドライブインで、『みゆきさんにおみやげ買う!』と言い張るの。ほかのお母さんに『お友だちなのね。みゆきさんて、いくつ?』って聞かれちゃった」とのこと。

 実は私、そういうことはままある。おみやげをもらったり、お菓子を渡されたり、散歩の途中で公園で知り合った幼稚園児と「秘密基地」について話し込んだり、「これおもしろいから読みなね」と絵本を貸されたり。
 精神年齢が同じだってことなのかしら。

 私が子どもだったころ、とても嫌だったことがある。大人が勝手に話を進めて、「えーっそうだったの?」とか「前もって言ってくれればわかったのに」という状況。
 たとえば、大人的には「今日は子どもも一緒に◯◯さんちに行くから、その前にお菓子屋さんに行って、何か手みやげを買ってきましょう。その間、子どもにはお留守番してもらおうかな」という日だったとする。
 それならそう言ってくれれば、喜んでお留守番をしようじゃないか。なのに大抵の大人はその辺をはしょるから事情がまったくわからず、ぼーっとしている間に時間は過ぎ、◯◯さんちに着く段になって「えっそうなの?」ということになる。
 もっと言えば、「赤いキャンディと青いキャンディ、どっちがいい?」と差し出され、「んーじゃ青」と選んで食べたら一気に10歳も上になり、「あれ? え? どういうこと?」「あーそれね、青いキャンディ食べたら10歳上になるんだ。赤なら10歳下ね」と後出しされるようなものなわけです、子どもにすれば。
 知っていれば、手みやげのお菓子を提案したり、留守番の間に◯◯さんちに行く心の準備をしたりできるわけで、もちろん赤か青か熟考するでしょう、キャンディひとつにも。
 子どもは子どもなりにちゃんと原則に従って生活しているわけなのだ。
 「どーして言ってくれないのっ!?」と、子どもの頃はいつもフンガイしていた。皆さんはそういうこと、ありませんでしたか? 私がたまたま、そういうタイプだっただけなのかしらん。

 なので今の私は、相手が2歳だろうが8歳だろうが、事情を説明する手間は惜しまない。2歳だってきちんと話せば、言っていることはある程度、わかってくれるものだ。
 そのせいか、冒頭の4歳児は私を「世間話ができる相手」だと見なしているようで、会うとぺちゃくちゃおしゃべりを始める。
 「今日、幼稚園で健康診断あったんだよねー」「へえ。私さあ、歯が痛いから歯医者さん行かなきゃいけないんだぁ」「あっ私も! みゆきさんはどこの歯医者?」「私は◯◯歯科かなあ」「私と違うねー」てな感じ。
 立派に話が成立してるね、書いてみると。お母さんが「この子、あなたと話してるときが一番自然なのよねー」というのは、ほめてくれていると言い切れないところが複雑であるが、日頃、説明を惜しまずしている余録ということにしておこう。

 まあ、保育園の先生で20人の子どもを一度に面倒みなくちゃいけないとか、赤ん坊が夜泣きをしてそれどころじゃなくて、とかいう場合は当然、「いちいち腰をおろして子どもの話相手なんてしてられないわよ」となるのだろうが、自分が子どものころ嫌だったことくらいは、これからも気をつけておこうと思っている。

庄司みゆき

mardi, août 22, 2006

夏休みの宿題2[Izumi Shoji]




 私はやっぱりおバカなのだろうか。意志が弱いのだろうか....。
 夏休みの宿題のおつきあいでカゴを一つ作り上げ、「さあ仕事!」と心を入れ替えた、その舌の根も乾かぬうちに。
 ああ、ごめんなさい! カゴ編みったら、どうにもこうにも楽しすぎて。やめられない、止まらない。おにぎりを入れるカゴがどうしても欲しくて、ついつい2つも。娘と私のおそろい、おにぎりカゴを編んでしまいました〜。前のと違って超簡単。とはいえ、一個作るのに1時間はかかる。ああ、神様、怠け者の私をお許しください。

 しかし、こんなのつくったら、行くしかないでしょう! 天気も良いし、お外でランチ♪ おにぎり握って、じゃがいも茹でて。タッパには冷やしキュウリや冷たいトマト。生のピーマンもゴロゴロと。自転車に積んで、近所の公園までひとっ走り。
 ああ、幸せ〜、な昼ご飯♪
「これ、料理じゃないね」
「うん、そのまま詰めただけだもんね」
「でも、おいしいね」
「おいしい」
「でもおにぎり、もっとほしかったね」
「うん。じゃがいももね」
「次はおにぎり、一人5個でもいいね」
「うん。じゃなかったらおにぎり3個にじゃがいも2個ね」
「じゃなかったらおにぎり4個にじゃがいも1個ね」
「要するに両方あわせて5個は必要ってことよね」
 今日はおにぎり(大)2個にじゃがいも(大)1個で、二人とも足りず。こんなことばかり言いあっていたのでした。

 あ、でももちろん仕事もしてますので、ご心配なく! 外でランチと言ったって1時間もせぬうち戻ってきてますッ。渋谷に昼ご飯食べに行くより、全然短時間ですむ話ですので....(って、私は誰に言い訳してるのだろうか...)。
 うーん、でも今度こそ心を入れ替えて、仕事がんばります。

庄司いずみ

編集とはなんじゃ?[Minoru Ota]

 小難しい話をしたいわけじゃないが、脳タリンの我が輩、簡単に説明能わぬゆえ、どうしても難しい言い回しになってしまう。許してくれたまえ。
 で、何の話かというと「編集とは何か」という話だ。過去ブログで庄司いずみが「編集は何ごとにも通ず」みたいなことを我が輩が言っておったと書いていたが、ま、その解説であります。
 いい加減な拡大解釈だとのご意見があろうかとも思いますが、僕は作曲や絵を描くことや、建築や映像制作や、あるいは漫才やコントや、小説や漫画や、あるいはパソコンの自作だって「編集」だと思うのだ。
 辞典で「編集」を引けば、あるテキストをある方針に基づいて書物や雑誌などの形にすることとある。出版の現場で働く我らにとっては「編集」とは企画会議から始まって取材、構成、執筆、デザイン、入稿、校正、校了、お金の計算と、それはそれは多岐にわたる。が、これは「編集者の仕事」であり、僕のいう「編集」ではない。
 定義してしまえば「ある構造を時空間化すること」っつうのが僕の言いたい「編集」だ。あ、「難しいこと言って煙に巻くんじゃねえ、このハゲ野郎!!」っていう罵声がいま聞こえたような気がするが、冒頭にも申したように脳タリンゆえの難解言辞、ご容赦を。
 さて、この定義に従えば、悲しみの感情なんてのも「編集」なんです。悲しい出来事というのは時間的なものですが、悲しみの感情そのもの、あるいは悲しみそれ自体というのは時間的なものではない。記憶は脳内に蓄えられているから空間的なものかといえばそうでもない。なぜなら、形がないからだ。それはいわば「構造」というパターンだろう。時間の中にも空間の中にもかたちとして存在しない、あるユニークなパターンだ。この悲しみという構造を、まるでポップアップを広げるようにして時間の中に展開することによって、人間は悲しみを肉体化するのだ。
 音楽を考えればもっとはっきりとするかもしれない。
 音楽とはどこにあるのだろう? たとえばバッハのゴールドベルク変奏曲という音楽はどこにあるのだろう? 楽譜の中? CDの中? それともピアノの中?
 どこにもない。
 あるいは太田穣・作詞作曲の「Boy」はどこにある? 今にも切れそうなカセットテープの中? 我が輩の思い出の中?
 どこにもない。
 音楽は体験できるが、音楽そのものは構造としてのみある。楽譜はその構造を言語で記述したものにすぎないし、演奏はその構造を展開することだ。音楽は時間上に展開されることで姿を現すが、その姿をとっつかまえて虫かごに入れとくことはできない。逆に、音楽の本体は構造だから、楽譜が無くても楽器が無くてもCDが無くても、頭の中で鳴らすことができる。
 つまり、構造という、なんつーかイデアみたいなものを、感覚できるものに変換する作業が「編集」なんじゃないかと思うのだ。
 原稿を書いている時を思いおこしてみると、そのとき誰もが我が輩のいう「編集」をしている。だから原稿を書くのは難しいのだ。
 取材してきたことを脈絡無く箇条書きにするだけでいいのならどんなに楽な商売だろう。でも、我らプロのライターたるもの、面白おかしく、かつわかりやすく読みやすく書かねばならぬ。そのために、ウーンウーンうなって頭の中にいろんな「構造」をひねり出す。エピソードの並び順、枕にオチ。はっきりとはならないまでも、そのモヤのかかったような構造にしたがって、パソコンのキーを打つ。このときの頭の中に生み出した「構造」はフローチャートのように図示できるから時間的なものではない。同時に、彫刻なんかには還元できないから空間的なものでもない。なにやらわからないボヤボヤとしたものだ。でも、しまいにはそれがテキストになる。でも、テキストは最初から順番に読んでいけば時間的なものだが、飛ばし飛ばし読んだり、あるいはおしまいから読んでしまえば空間的なものとなる。けだし、そのテキストの故郷が「構造」である所以である。
 あ、ここまで書いて、やっぱ書くんじゃなかったって思ってきた。これ、書き始めたら延々続くもん。しかも、面白がって読んでくれる方は皆無だろうし……。
 というわけで、ここでやめておく。
 だが、ひとつだけ言っておきます。文章がうまい人はきっと何やらせてもうまいと思う。そういう人は読書や芸術に触れてきたことによって「構造」というものを展開することに長けているはずだからだ。
 何が言いたいかというと、甥っ子があまり本を読まないというので、「若者よ、本を読もう!! 音楽(いい音楽)を聴こう!! 絵画を見よう!!」とシャウトしたかっただけなんだけどね。メッセージよ、盛岡まで届けっ!!

太田穣

vendredi, août 18, 2006

夏休みの宿題[Izumi Shoji]


 小学生のお子さんをお持ちの方ならおわかりだろうが、夏は忙しい。
 なにしろヤツらは、1ヶ月以上もお休みなのだ。ふだんは朝7時50分には出かけ、3時40分まで帰ってこない娘が、8時半になっても起きてこない。それどころか9時になっても10時になっても、昼ご飯時になってもソファでゴロゴロ。本を読んだりゲームをしているのだから、本当にメイワクだ。大人には夏休みなんてないのだから! 早くもっと大きくなって、夏休みの間中、彼氏と旅行にでも行ってくれ〜! 

 とはいえ私はダメ母なので、夏休みだろうと遊びに連れて行ったりしない。ふだんより負担が増えてるとすれば昼ご飯の支度程度。それでも忙しい。
 そのわけは、ですね....。そう、夏休みの宿題です!
 重ねて言うがダメ母なので、算数の宿題なんかは見てあげない。そういうのは全部、夫がやってるらしい。
 ではなにがたいへんかというと。みなさんも覚えがあるのでは? 自由研究。何かを研究しても、観察しても、レポートとか作ってもいいというアレ。工作や手芸なんかもオッケイというやつだ。
 うちの子は女の子のせいか、毎年お料理研究とか、ブックカバーを縫ったり、ビーズで作り物をしたり、クッションに刺繍したり、なかなかかわいらしいことをやっている。低学年の頃こそ、縫い物のコツやビーズの編み方指導でたいへんだったが、最近では作り方を本で調べ、自分で勝手にやってくれるからラクチンだ。
 だから何がたいへんなんだよッ、とお思いでしょう。
 ダメなんです。私も手作業が好きだから、娘が何か作ってると、自分もやりたくなるのです。しかも今年娘が選んだ題材は『カゴ編み』。うわーん、楽しそうすぎる!
 ってなわけで、私も作ってしまいました。見てみて、超キュート。ふうッ、丸二日もかかってしまった。その間仕事時間はやや(かなり?)削られてしまったが、うう、これから巻き返し、がんばります。
 しかし、こんなかわいいカゴがあると、サンドイッチ持って、ピクニックに行きたくなる。う〜ん、困ったことだ。

 えッ、ところでアノおじいちゃんがそんなことを....(私ごとで恐縮ですが、姉の言う通りの人だったので)。戦争の話、もうちょっと突っ込んで聞いておけばよかった。
 数年前、母と原爆ドームに行きました。広島に住んでいた母は、当時疎開はしていたものの、家族や友達は残っていたりで当然色々あったようだ。70歳になった今でも原爆ドームは「こわいから行きたくない」場所だったようで、ハクハクしていたのでこっちが驚きました。直面するのは難しいです。

庄司いずみ

jeudi, août 17, 2006

祖父の遺言 [Miyuki Shoji]

 原爆の日もお盆も終戦の日も終わってしまいました。信じられないほど蒸し暑いなか、皆さまバテバテになっていませんか。

 父方の祖父は医者で、戦争中は軍医としてラバウル(←確か……要確認)に行ったそうである。私たち孫が幼かったせいもあっだたろうが、戦争の話はほとんどしなかった。
 ただ、乗っていた船のすぐ隣の船が撃沈されて全滅したのに、祖父は生還したというのは聞いていた。紙一枚ほどの差で命拾いしたのだ、強運だなあと驚いたものだが、後々まで祝日には国旗を欠かさず掲げていたような人だったので、戦後リベラル・左寄りの親は、そんな祖父の”愛国心”をとてもいやがっていた。
 祖父は田舎の出で、若いころ剣道や水泳で鍛えていたせいか、高齢になってもがっしりしていた印象がある。病気で半身不随になって病院で果敢にリハビリを続けつつ、利き腕でないほうの手で文章を綴ったりしながら、数年前に亡くなったのだが、亡くなる少し前の真夏、帰省していた私は世間話の中で、戦争のことを少し尋ねてみたのだと思う。
 祖父はぽつりと、
「あのような……馬鹿な戦争は……二度としてはならない」
と言った。
 時間と思いのこもった何かを渡された気がして、家に戻って両親に祖父の言葉を伝えた。「えっ、おじいちゃんがそんなこと言ったの」と二人して驚いたので、そんなことを言う人ではないと思われていたのだ。

 いろいろなことを、もっと聞いておけばよかったと亡くなってから後悔したものだが、あの言葉だけは覚えておこうと、夏が来るたびに思う。

庄司みゆき

vendredi, août 11, 2006

乱丁亭日乗[Hitoshi Oba]

 タイトルにたいした意味はありません。ただ、最近の本ではほとんど見かけませんよね。
 流石のオーバも乱丁のある本は作ったことがないと思う(多分……。大丈夫だろうな、ホント?)。
 昔の本を古本屋で買うと、たま〜にスゴいのがありますけど、やっぱり世の中、進んでいるんですね。

某月某日
 オヤヂ囲碁大会に出席。成績は敢えて秘す。会が六時過ぎに終わって外に出るとまだ明るい。同席のY様に誘
っていただいて、新宿の碁席Sに。結局、水割りなんか飲みながら翌日の始発まで遊んでしまう。
 生まれて初めて「碁でちょっとイケナイことをしているらしいおじ樣方」を目撃、少し大人になったような気分になる。Y様、色々とお世話になりました。また遊んでやってください。
某月某日
〜打ちたいだけ打つぞということにしたら人生はにわかに充実してきた。多少のことは世の中の方に我慢してもらう。そのぶんだけこちらが充実する。勤め先で同僚の石を三十目ぐらい取れそうなときに急用ができても、三十目を取ることを優先する。明日が原稿の締め切りだとわかっていても碁の呼び出しがあれば出かけてゆく。原稿は一日のばしてもらえばいい〜
 伊藤礼『パチりの人』から引用させていただきました。これは名著です。素人碁打ちの理想を余すところなく描ききっていて、「こういう者に私はなりたい」といつも思う。
 ご存じない方もいらっしゃるかと思いますが、伊藤礼先生は作家・伊藤整の次男。知る人ぞ知るエッセイの名手で、『狸ビール』『まちがいつづき』などは、これはもう唖然とするしかない名エッセイ集です。もしかすると、オーバが今一番好きなエッセイストかもしれません。
 皆様方にも是非ご一読をお勧めしたい、と書きたいところなのだけれども、これが怪しからぬことにいまやすべて絶版なんですよ。ホンットーにもったいない。
 この際、どこかの版元が「伊藤礼エッセイ大全」みたいな本を出してくれないだろうか。不肖オーバ、お手伝いできることがあれば何でもいたします。
 それにしても我ながら「前向き」なことが考えられない人間である。実はそれはそれでたいして悪いことでもないと考えているらしい節もあるのだけれど、こんなこと書くとまたエイギョーに差し障りがあるかしらん?
某月某日
 フィレンツェ在住の知人、N夫妻が夏休みで帰国されている。「ニッポンのカラオケボックスたらいうものを案内いたせ」とのご下命なのでお供する。
 ここのところ当ブログは太田師匠の音楽話で盛り上がっているけれども、実はオーバ、筋金入りの大音痴、もしかすると文章以上に歌が下手糞である。案の定、何を歌っても画面には「採点できません」と表示される。いくら自他ともに許す音痴とは申せ、いささかへこんで帰宅。
 テレビをつけるとたまたま、みゆき様ご推薦の「サラリーマンNEO」をやっている。確かに悪くない。それにしても国営放送がこういう番組を作るっていうのも、ある意味の「成熟」ということなんでしょうか。
某月某日
 顔を洗っていると円形脱毛を発見。ちょうど碁石ほどの大きさである。分け目付近なので結構目立つ。はて、近頃なにかストレスでもあったかしらん、と考えるが、実は心当たりはいくつかある。あるんではあるのだけれども、ちょっとここでは書きにくい。
 ただ、こんなことならいっそ「断腸亭日乗」というタイトルにすれば良かったかな、なんて少し思ったりする……まさかね。

大場仁史

jeudi, août 10, 2006

夏のコスメ[Izumi Shoji]


 台風一過ですごいお天気。暑い、まぶしい!
 ところで、女性のみなさんならこんな日の外出は、気になりませんか、紫外線。その昔、オーストラリアの日差しで背中じゅうソバカスができて以来、ワタシは死んでも焼かない方針。むろん日焼け止めは年中手放さない。顔だけじゃなく、首にも腕にも、脛や足の甲にまで塗り込めてまーす。
 ただ....。SPFとかの値を信じすぎるのは危険かも。というのも、あの数字は、規定の量の日焼け止めを塗って実験した時の数値。実際に私たちがつける量は、その規定量よりかなり少ないらしい。先日取材した皮膚科の女医さんが言ってた話だ。
 それから、ナチュラルメイク派の人なら、日焼け止めだけ、ファンデはなしってこともあるだろう。でも、皮膚科の先生は“日焼け止めだけ”よりは、むしろ“ファンデだけ”を勧めていた。というのも、パウダーファンデの粉の粒子は紫外線散乱剤と似た働きするとかで、レーザー治療の時も、少しでもファンデが残っているとレーザーを跳ね返すほどらしい。
 とはいえ、私はファンデが苦手なんですよね〜。肌が呼吸できない気がして。ってな人は、日焼け止め+おしろいでもいいそうな。でも、乾燥肌だとおしろいだけでは肌がカサつく。しかも、日焼け止めは肌に刺激が強すぎるし、といってノンケミカルの肌に優しいタイプは白浮きするし。う〜、いったいどうすれば!?
 ジャ、ジャーン! ここで発表で〜す。敏感&乾燥肌&ファンデ嫌いの私が模索し、この組み合わせがベスト! 日焼け止めはママ&キッズの『サンスクリーンミルク』。UV吸収剤を使わず、無香料、無着色、パラペンフリー。なのにSPF32PA+++。白浮きもなし。そしておしろいはロゴナの「プレストファンデーション」。ファンデーションとは言うものの、ブラシでさっとつけるお粉状のもの。お粉なのに肌は乾燥しません。
 さらに、美白ケアとしてはママ&キッズの『ホワイトオリゴエッセンス』を使用中。その皮膚科の先生に『ハタチ過ぎたらビタミンC誘導体配合のコスメは常識よ!』と言われたからだが、ビタミンC誘導体配合のコスメは、私の肌にはたいてい強すぎる。でもこれは大丈夫でした。この3つのコスメで夏の外出もコワくない。
 あ〜、でも暑い。ホントに暑すぎる。今日のお昼は素麺以外考えられない。もちろん夜はビールでしょ。ではみなさんも、お体には気をつけて!

庄司いずみ

lundi, août 07, 2006

『boy』[Minoru Ota]

 おお、黒部さんから嬉しい反響が!! 確かに、大学の同級生、後輩には懐かしいはず。というわけで調子に乗って懐古・自慢の第二弾。『boy』という曲である。
 これは『マリーの歌』にくらべるとコード進行もシンプルで常套的。バンドのギター、林ワンパク君は『太田さん、きゃー、恥ずかしいよ、コード変えようよ』と不満たらたらであったが、「こういうシンプル、かつ常套的なほうが覚えやすく、ヒットしやすいのだ」と説得したのであった(ヒットって、デビューもしてないのに、なに誇大妄想してんだか)。
 新宿二丁目の小さなディスコでたまたま出くわした男に常連ぶって説教してる──というのが詩の結構。人名などの固有名詞が出てくる、なんかドキュメンタリーフィルムのようなロック(フォークロックに近いか?)を作ってみたかったのだ。
 作詞・作曲・歌が我が輩でありまする。バンド名はサマルカンド(『マリーの歌』も同じ)。ギターは林ワンパク(デザイン事務所勤務)と西橋(電通マン。仕事くれ〜!!)。ベースは千早(たぶん、今は教師か?) キーボードは今村(テレビ業界にいると聞くが……)。
 なお、このサマルカンドの後、インスリーミナッツというバンドを結成。これはユキエちゃん(現・石埜氏夫人)を女性ボーカルに据えたバンド。ドラムは吉岡(唯尼庵を教えてくれた彼。ライブ中にバスドラムがずんずん前へ進むことで有名)、ギターは林ワンパク、ベースが我が輩。一時期、松井さんという女性がヴァイオリンを弾いていました。で、石埜氏が「僕もまぜてくれ〜」と懇願するのでしかたなくキーボードに据えた。クラシックばかり聞いてきた石埜氏にロックのビートっつうものを教えるのが、いやあ、たいへんではあった。だって、石埜氏のキーボードが入るとロックだった曲がなぜかベートーベンの交響曲第7番になるんだもん。いいけどね、7番は俺も好きだから……。で、結果、石埜氏はユキエちゃんを我らが知らぬ間にちゃっかりとモノにしたのであった。なんのためにバンドに入ったんや!!
 さて、このインスリーミナッツ時代に歌っていた曲に『パパの歌』というのがある。この曲、数年前に実は他のアーチストのアルバムで歌われているのである。これも、ここに聴くことができるようにファイルをおいておきますが、もちろん、ヒットはしていません。アーチストの方もこの1枚だけで終わったようでした。
 この『パパの歌』は暗く悲しい歌で、前のめりのスピーディーな8ビートで歌われるものなのだが、この某アーチストのバージョンは明るくさわやかな16ビートになっていて、まったく僕のイメージとは正反対の音楽になってしまっている。僕は曲を提供しただけで、アレンジやプロデュースにはノータッチだったのだ。ほんとうに残念だ。
 なお、営業用にお知らせしておきますと、作詞の仕事は幾度もいたしました。で、あるゲームのテーマソングに使われた『ジャギー・ラブ』という曲は、確かオリコン50位前後にランクインされたかと思います。お店によっては、いまでもカラオケのソングリストに載っているそうです。どうぞ、作詞のお仕事も頂戴〜い!!
 
■『boy』
■『パパの歌』
※環境によっては音楽が再生されず、かわりにファイルがダウンロードされるかもしれません。その場合はダウンロードされたファイルをダブルクリックしてください。iTunesなどで再生されるはずです。

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『boy』

ちょっと待って 月が昇りきるからよ
話はそれから お前の待ちぼうけの話を聞こうぜ
なんて悲しい顔さ 待ちくたびれたのかい?
誰をそんなに待つんだ? 
イエス・キリスト それともヒットラー?
boy boy
開いているぜ 閉めなよジッパー
boy boy
先は長いぜ もっと孤独に boy


この店はよく来るのかい? 2丁目が好きなんだね
バカなバカ騒ぎにゃ もってこいの ババババ場所だぜ
どんな女と踊ったの? バカな女か クサい女か
まあ ろくな女はいないさ モノに憑かれていかれているから
boy boy
開いているぜ 閉めなよジッパー
boy boy
先は長いぜ もっと孤独に boy


あいつの名前はダニー 横須賀のネイビーさ
いつもポケットにゃ ひとかけら 真っ黒なハッシッシシシシシシ
おまえにもらってやるぜ 平和が好きなんだろう?
ちょっとやってみたらどう? 頭の中も真っ黒クロクロ
boy boy
開いているぜ 閉めなよジッパー
boy boy
先は長いぜ もっと孤独に boy


テリーって言うんだ あのコは 金持ちの娘だとよ
いつも土曜の真夜中に クスリでふらふらお出まし
悲しい目つきしてるぜ 愛が信じられないんだと
そりゃあそうだぜ 愛は不幸の中にしかないから
boy boy
開いているぜ 閉めなよジッパー
boy boy
先は長いぜ もっと孤独に boy


そうさ俺も探しているんだ 足が震えてくるぜ
たった一度の出逢いだけど お前が俺のマリアに思えて
お前が教えてくれた 星の光みたいだね
もっと孤独に もっと孤独に
もっとはかなく もっとはかなく
boy boy
開いているぜ 閉めなよジッパー
boy boy
先は長いぜ もっと孤独に boy

no no no no boy
no no no no boy
no no no no boy

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太田穣

vendredi, août 04, 2006

マリーの歌[Minoru Ota]

 謀か、それとも赤心より出でたる言葉か? 数日前のブログにおける我が輩へのヨイショ。悪い気はしないが、それでもなにかしら不気味ではある……。
 とはいえ、こうヨイショされると、懐古・自慢モードに入っちゃうから手に負えないワタシである。
 てわけで、大学時代のバンド(大学祭専用バンドみたいなもんだったが)のテープが出てきたのでご紹介したい。ちょうどこの頃は、サザンオールスターズが『胸騒ぎの腰つき』(タイトル、間違ってる?)で、ララーラーラーラーラーラーラーっとデビューしたころで、我々は、「ふん、ロックのフリして歌謡曲やりやがって」なんて自惚れもいいとこで、心で歯がみしていたわけですが、それでもこの『マリーの歌』、メロディーや詩の感じなんか、当時としてはかなりいい線いっていたんじゃないかと自負するわけであります。はい、わたくしの作詞・作曲、ついでに歌ってます。だれかがライブをラジカセで録音したので音質もバランスも最悪だが……。歌詞も下に書いときます(「アウシュヴィッツが来る」なんて今読むとかなりヘンだけど)。
 この頃は木賃アパートの台所のテーブルに陣取って、学校にも行かず、曲ばかり作っていた。友人から借りっぱなしのLL用のラジカセで、作った曲をいくつもいくつもカセットテープに録音した。最高に楽しい時間だった。
 数年前までも、折に触れて曲をつくっていたのだけれど、最近はまったく……。これはとってもとっても堕落した状況だということだ。また、音楽、始めよう!!

[マリーの歌]

http://aureliustokyo.net/song_of_mary.mp3
※環境によっては音楽が再生されず、かわりにファイルがダウンロードされるかもしれません。その場合はダウンロードされたファイルをダブルクリックしてください。iTunesなどで再生されるはずです。


Oh マリー おまえを連れて
心に愛のロザリオ かけただけで
Oh マリー 大きすぎる
ショーウィンドウは輝くけど 星の光は届かない
Uhh マリー いまの暮らし まるでジグゾーパズル
なぜか とてもこわい

Oh マリー おまえは言うさ
ご覧なさい ショーウィンドウは星の光よりも輝いてるわ
Oh マリー 俺はこわい
ハイウェイの終わる町の名を 考えてるのさ
Uhh マリー 笑わないで いまが幸せすぎて
なぜか とてもこわい

誰がいまアウシュヴィッツ 誰がいまアウシュヴィッツ
誰がいまアウシュヴィッツ 来るなんて 思うかい
誰がいまアウシュヴィッツ 誰がいまアウシュヴィッツ
誰がいまアウシュヴィッツ 来るなんて 思うかい

Oh マリー おまえを連れて
二人で暮らすエデンを 地図で探したけど
Oh マリー 世界はもう
ソドムのように汚されて 最後の光はどこでも照らす
Uhh マリー 笑わないで いまが幸せすぎて
なぜか とてもこわい

誰がいまアウシュヴィッツ 誰がいまアウシュヴィッツ
誰がいまアウシュヴィッツ 来るなんて 思うかい
誰がいまアウシュヴィッツ 誰がいまアウシュヴィッツ
誰がいまアウシュヴィッツ 来るなんて 思うかい

Oh マリー Don't マリー
Don't go to Auschwitz


太田穣

jeudi, août 03, 2006

喜びの耐えられない軽さ [Miyuki Shoji]

 スキャンダル以来、ドンドン高級感(?)が薄れていくNHKだけど、いや、だからこそなのか、いろんな試みがなされている、みたいである。
 教育テレビの「ピタゴラスイッチ」あたりの子ども番組だって十分ヘンだし、話題の「謎のホームページ・サラリーマンNEO」も脱力してしまうくらいヘン。冒頭の宝田明のイカしたダンス(←ツボである)には元ネタがあって、「Weapon of Choice」のクリストファー・ウォーケンのダンスの真似っこらしい。踊るウォーケン、見てみた〜い!

 観たことのない人のために説明すると、「サラリーマンNEO」はサラリーマンの日常を題材にした小ネタ劇場。サラリーマン体操だとか(ミーティングでの上司のくだらない提案にうなずく動きの練習、とかね)、生真面目でダサイ川上くん(played by 二枚目俳優・沢村一樹)の会社での生態とか、キツい美人OLと情けない男性社員のカラミとか、ほら、聞いてるだけで力が抜けていくでしょ。あまりにバカバカしくて目が離せないエピソードも多い。
 それを、総合テレビの夜11時から30分、週1でやっちゃうのである。意図的なマイナー指向というか非主流ぶりは、有名になる前の「モンティ・パイソン」に匹敵するかも。これは、がんばっていると評価すべきであろう。

 もともと「ポーキーズ」みたいな、本人大まじめなのに状況的には情けないといった青春映画や、C◯レモンのコマーシャルに出ている「サンキュー!」って言われる濃ゆいオジサンの、本人自信たっぷりで傍はトホホ、みたいなのが大好きな私にとっては、かなりハマる路線です。

 てなわけで、いつもキリリとしているのは疲れるでしょー。知的労働者の皆さん、それぞれ思いっきりおバカな喜びをみつけて、頭の筋肉をほぐしましょう。
 そうそう、今やっているとあるお仕事のためにリサーチしていたところ、クライマックスを迎えにくい女性は、子宮ばかりか内臓が固まっていて、体がゆるんでいないために快感が流れず、キモチよさに身を任せられない、ということがあるらしい。
 頭をほぐせば肉体もゆるむ。胃が固くなれば胃痛になるし、腸が緊張すれば排泄がとどこおる。いけません、美人への道が遠くなります。知的労働だって性的活動だって、基本作用は同じ。緩急の両方があってこそ効果が出るのだと思う。

 亀田三兄弟の長男が1発ダウンを食らったうえ、最後の方のラウンドではずっと劣勢だったのにもかかわらず判定勝ち。
 腑に落ちないことおびただしいんで、イカンイカン、力を抜かねばと思ったのもあっての、ゆるめのトピックでした。

庄司みゆき

mardi, août 01, 2006

初めてのお仕事[Izumi Shoji]


 実はワタシ、夫を意外と尊敬してまーす。何でもできるんですもん。単行本の編集・執筆はキホンのキ。デザインも、作詞作曲も!! ミュージカル界を目指してるだけあってダンス……は無理でした。
 それにくらべてこの私。取り柄もなく、仕事として成り立つのは原稿書きだけ。
 そんな私が! ナント、トークショーのお手伝いをさせていただきました。最終的には単行本にまとめる企画で、超カリスマ整体師と大人気占い師の対談をライターとして担当。そうこうしてるうち、「公開でやろう」ということに.....。初めてです。トークショーの構成を考えるなんて。いや、大したものじゃないんですけどね。構成というか、台本とまでいかないレジュメというか。
 どうしていいかわからず、夫に「トークショーの構成ってどうたてればいい?」と聞いたら、即座に「知らん、やったことないし」との返答。キャアッ、私ったらスーパー編集者の夫(ヨイショッと)にすら未知の領域に踏み込もうとしてる!?
 まあ私の戸惑いなんか、S社の編集担当者W嬢にくらべれば....。なんせ彼女は会場手配から当日の司会(!)までまかされ、「どうしましょう」と言い通し。文芸担当の編集者がトークショーの司会....。Wさん的には緊急事態だったのではなかろうか!?

 ところでレジュメだ。初めてのことだけど、どちらも何度もご一緒させていただいてる先生のこと。「こんなこと話してほしい」というのをまとめ、構成してみましたよ。Wさんになったつもりでセリフまで書いたりして。ウン、我ながらよいデキだ。
 で、この間の日曜日がその本番でした。両先生ともレジュメには満足してくださったようだし、ヤレヤレ、あとはトークショーがそのまま進んでくれるのを祈るのみ。
 でも.....。実際には話題が超豊富なお二人のこと、話があっちにふくらみ、こっちにふくらみ。私の思ったとおりの展開にはなりませんでした。でもま、それもライブの楽しみ。お客さんは楽しんでくれたようだし、ともあれ、よかった。それにそのままの進行にはならなかったけれど、いったんトークショーとして構成したことで、追加取材や単行本の編集、執筆作業もずいぶん助かりそうだ。

 今回思ったのは、「編集ができれば何でもできる」という夫の格言が本当だったということ(この説明は、いつか夫に書いてもらいましょう)。あと、「意外と私、何でもできるジャン! イベント屋だってできそうじゃん」ってこと。イベント企画にさほど興味はないけど.....。自分の中にもいろんな可能性があると知り、ちょっとワクワク。なのでみまさまも、「庄司はライター」と決めつけず、何でも頼んでみてください。あ、でも私、歌ったり、踊ったり、トークショーの司会とかはできませんので、ご了承くださいませ。Wさん、お疲れ様でした〜。

庄司いずみ